父の多大なる影響について



 人間の人格形成においてその家庭環境がいかに大切かは自明の事実であるが、親の趣味や嗜好が子供にどのような影響を与えるかについて延べた書籍をまだ読んだことはない。僕がミリタリーオタクになったのはまぎれもなく父の影響であり、それ以外のなにものでもない。不幸にしてミリタリーオタクになってしまった皆様の家庭環境はいかがなものであったか、興味は尽きないのである。

  僕の父親は昭和一桁生まれ。神戸に育ち高射砲陣地で砲弾運びをしたり、須磨の海岸で三八式歩兵銃の試射や、戦車に見立てたリヤカーの下に模擬爆雷を抱いてもぐりこむ軍事教練を受けた当時としてはごく普通に存在した軍国少年であった。航空兵に憧れた父は応募すべく長野の本家に戸籍の取り寄せを依頼したが、本家はこれ以上戦死者が出ることを恐れ、知らんふりをして結局父は願書を出すことができず、そして終戦を迎えたのである。


  そんな大空への憧れがあったためか、父の書斎は飛行機のプラモデルでいっぱいだった。日本の零戦をはじめ、ドイツのBF109やfw190からとにかく有名どころの戦闘機、爆撃機をはじめ、すでに100機ほどの空軍戦力を保有していたのである。そして書棚を占めるのは半分はビジネス書、半分は軍事関係の書籍だった。ふと気づけば僕の部屋の書斎も半分はビジネス書、半分は軍事関係の書籍で埋め尽くされている。ああ、血は争えぬ〜。


あるとき、父のプラモデルの中で10機程ひどい壊れ方をしている機種があることに気づいた。聞けば2歳〜3歳の時に僕が遊んでいて破壊したものらしい。写真でジャングルや基地で破壊された飛行機を見た影響か、土の中に埋めたり!していたらしいのだ。プラモデルをそんなガキに提供してしまった父の寛大さに当初感動したのであるが、今になって考えるとこれは立派な洗脳ではないかとおもうのである。

だが、不思議なことに僕が飛行機に詳しくなったのは実は社会人になってCFSにハマり出してからだ。当時の僕は父が空軍なら僕は海軍と陸軍だ!と最初はウォータラインシリーズで連合艦隊を結成し、30隻ほどの製造したあとに本格的に陸軍部隊を増強しはじめて装甲軍団を作り上げたのだ。教育書には子供は褒めて伸ばせと書いてあるが、運動のほうはからっきし駄目だった僕は手が器用だったこともあり、細かい模型作業には合っていたのだろう。根っからの凝り性ということもあって、この分野ではとにかくオヤジに褒められることが多かった。褒められるとまた褒められたいのでがんばってしまう。こうしてオタクは造られていったのである。高校生のころは休日は同じ部屋で、オヤジは飛行機を、僕は戦車の模型を作成して、お互い食卓で見せ合って喜んだいたものだ。オカンはもうあきれて「ほんまに好きやねえ〜」というのが口癖になっていた。オヤジもオタクだったので自分もおかしいかなあと時々は思いつつもまあいいかとそのまま突き進んでいったのである。きっと大学入学で実家を出ることが無ければ今ごろはどうなっていたのかなあ。

  ちなみに僕は昭和40年代生まれ。カミングアウトして気づいたのだが隠れ軍事オタクが多いのが昭和35年くらいの年代。この年代ってテレビでアニメンタリー決断が放映されていたり、僕らの世代よりはるかにミリタリーに触れる環境が豊富だったように感じています。なんせ僕らの時代は小学校3年生のときに一世を風靡した「機動戦士ガンダム」が放映されてガンダム大ブームが到来したときですからね。戦艦大和は知らなくてもマゼランやサラミス、ムサイやザンジバルを知っている子はうじゃうじゃいたわけですから。僕も一時期ガンダムプラモ(通称:ガンプラ)に浮気をしましたが、所詮はアニメーションの世界の話なのでそれほど感情移入が出来ず、すぐにMM模型に戻ることに。(戻ったのかなあ・・・)

ガンプラは和歌山の高野山に住んでいた従兄弟が遊びにきたときにほとんどあげてしまった。わざわざ遠くの模型屋まで自転車こいで購入した144分の1の量産型ザクだけはちょっと惜しかったなあ。当時すでに品薄で購入できなかったんです。大河原氏のジャブローで活動するザクのジオラマを見て欲しくなって模型屋で予約して買った思い出のザク。

次の章ではガンダムについてすこし語ってみようと思う。
  
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